これはよしひろが医学生をしているからでしょうか、新聞や雑誌で医療について語られているのを見ると必ず目を通してしまいます。医療問題について語られた本も、ふと振り返ってみるとかなりの冊数を読んでいる気がします。だから何処で見たものか、もう思い出せないのですが、何処かでこんな一節がありました。多分、かなり昔だと思うのですが、とても強く印象に残っています。
「医者は、病気を治すのではない。患者を治すのだ。」
これを見た時、他の人たちはこの言葉に対してどういうイメージを抱いただろうか、と考えます。この言葉から連想され得る医者のイメージとは、いかなるものだろう、と考えます。
奉仕の精神で患者に尽くす医師? 患者の心の奥底まで辿り、支えになってくれる医者? 優しく患者のことを包み込んでくれるお医者さん? いつも頼りになる、いつでも頼れる町の相談相手? ……判りません。判りませんが、一つ言えることはこの言葉を見た時、僕は眩暈さえ覚えるほどの嫌悪感をこの一節に対して感じ、少なくともそういったドクターには決してなるまいと思った、ということでした。
この嫌悪感を判ってもらうには、少しばかり説明が要るかもしれません。この文章を読む人の全てが医療問題に詳しいとは限りませんので、医療倫理でよく使われている言葉の説明から始めたいと思います。回りくどく感じる方もいらっしゃるとは思いますが、少しお付き合いください。
ここ10年の間に、医療を巡る状況は様変わりしました。医師のパターナリズムへの批判の声が次第に大きくなり、社会的風潮とまでなった、ということがその一つです。
パターナリズムpaternalismというのは、父性主義とも父権主義とも訳されますが、相手を我が子のごとく慈しむ、相手に対して相手の意思とは無関係に、時に相手の意思に反してまでも善意から行いを為すことを指します。昔話でもよく出てこなかったでしょうか、小説でも見かけなかったでしょうか、良くない行いを為そうとする子どもを力ずくでも制止して、正しい方向に向けようとする父親の姿を。自分では正しい判断が出来ない子どもに対して、時に叱り、時に教え諭し、時に優しく包み込む、そうした父親の姿勢、それがパターナリズムです。
医師は、かつてこうしたパターナリズム的振る舞いをすることが当然と考えられてきました。何も自分の病気のことについて判らぬ患者、いわばそうした迷える子羊達を、一人一人心の底から慈しんで、最も良い方法をこちら側で用意してあげて、患者には黙ってこっちの言うことを聞いてもらうだけで良い……それが医師の正しいあり方だと考えられていた時代がありました。それも、ほんの一昔前のことです。
「黙って俺について来い」。そうしたパターナリスティックな医師像は、近年急速に批判の対象になりました。そこに患者がいない、患者の気持ちが、意思が反映されていないというのが、その理由です。
当たり前と言えば当たり前ですが、医療の対象とするのは患者の身体です。自分の体に何かされると言うのに、自分の意思が全く無視されているのはおかしいじゃないか。自分は医者のおもちゃじゃない、実験台じゃないんだ、自分のことは自分で決めたい、そうした切迫した思いがいわば、パターナリズム批判の走りだったのだと思います。
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