#6.パターナリズムについてE

 

 だがこれだけパターナリズムに対して批判が提出されているにもかかわらず、パターナリズム擁護の立場を採る人間がなお存在することに、僕はいささか奇異の感を禁じ得ません。直接的にパターナリズムを擁護するというわけでなくとも、斜めからパターナリズム批判を攻撃する論客はまだ大勢います。また、僕が病院実習などでドクターたちと話をしていても、オートノミーを原則として医療を行っているようには到底感じられないし、そのことに疑問も持ってさえいないように見えます。
 それは僕と彼らとの世代の違いなのでしょうか。確かに僕は医学部に入学する前からパターナリズム批判の只中に育ち、オートノミーは当たり前という観念を身につけてしまっている。そうした僕にとっては、検査や薬品の一つ一つに充分な説明を行うことなど当たり前であり、病名告知の是非などそもそも問題にすらならない。むしろ問題は患者自身にいかに主体的に治療計画を立案してもらうか、そのためにどれだけの情報をどのように提供すれば良いかだと、そのように僕は考えています。こうした僕と、なおパターナリスティックな医療を擁護する彼らとの間には、到底同時代かつ同カテゴリーの人間とは思えない隔たりがあります。
 それは単に医師の世代の違いによるものなのか。はじめ確かに僕はそう考えていました。しかし考えるにつけ、それだけでは到底説明できないことが多いことにも気付いたのです。考えてみると、医師一人一人が敢えてパターナリズムを擁護する合理的な理由など実は何処にもない。もしもパターナリズムが医師の個人的感情、例えば満足感によって支えられているとするなら、もっと医師ごとによって方針がバラバラであっても良いはずだ。パターナリズム擁護は、医師たちの側が意識的に行っているわけではなく、むしろ社会的に、無意識的に強いられたものではないだろうか。……

 医療の世界においてはパターナリズム批判が展開されてきました。だが気を付けておかねばならないのは、それは社会のあらゆる領域に広まったわけではないということです。パターナリズムそのものは社会的に蔓延したままであり、医療などいくつかの領域においてのみ、それが批判されている。
 医療は決して社会的に孤立した領域ではありません。それは社会的状況に常に左右される。何故ならば病院にやってくる患者自身は、社会の中で生活を送っている具体的人間だからです。いわば医療は、患者というものを接点として、社会に対して常に晒されている。それゆえ社会がパターナリスティックである時に、病院の中だけオートノミーを原則とすることは極めて困難なのです。
 社会の中におけるパターナリズム、それが最も強烈に現れている場所は、その文字通りの場である家庭だと僕は考えています。社会的に見たときに、家庭というシステムが個人に対して強烈な権力を握っている限りにおいて、パターナリズムが消えることはない。そしてそうした社会的状況が医療の世界に備給され続ける限り、医療においてパターナリズムが消えることはないでしょう。
 要約するなら、社会において家庭というパターナリスティックな制度が存続する限り、医療においてオートノミーを柱とすることは出来ないと言える。医療における単純なパターナリズム批判が見なかった問題圏は、そこにあると僕は考えています。


 蛇足になるかもしれませんが、付け加えさせてください。始めに僕は、「医者は、病気を治すのではない。患者を治すのだ。」という言葉に、強烈な嫌悪感を覚えたと書きました。それはこの言葉が、社会の中に蔓延しているパターナリズムを擁護する言説であると思われたからでした。
 医療におけるパターナリスティックな言説、それは例えば「ホーリスティックな医療を確立すべきだ」、「現代の医者は臓器ばかり見て患者自身を見ようとしない」、「心優しくなんでも相談に乗れる町医者のような医師になりたい」、「体だけでなく心も癒せる医者の育成が急務だ」などなど、社会の中で溢れかえっています。現時点に於いてという限定を付けるなら、これらの言説は結局のところ、患者本人のオートノミー確立には障害となってしまう。それは更には、社会の中のオートノミーという原則の確立を阻むものなのです。
 パターナリズムの本質、それは“やさしさ”です。“やさしさ”、それは泥沼のように相手を引きずり込んでしまう。それはもしかしたら暖かくて心地よいものかも知れない。たとえそのまま窒息死することになっても、それはそれで幸福なことかもしれない。だけれども、僕はそうした“やさしさ”を持ちたくないのです。僕はそこから逃れて生きていきたいのだから。そしてまた、そうした“やさしさ”故に苦しんだ友達を見てきたから。
 これはしかし、個人的な感傷に過ぎないと思われるかもしれません。だがおそらくそうではない。今後提出する予定のテクストで、パターナリズムとノーマライゼーションを巡って、様々な方向から検討を加えたいと思っています。小児医療や精神医療などの原理を問い掛ける中で、ジェンダーをめぐる問題圏とそれらとの構造的連関を明らかにしたいと考えています。僕が感じた嫌悪感はあるいは、そうした長い長い議論の後でしか感じ取ってもらえないものかもしれません。

 


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