医療においては、様々な場面で選択が要請されます。パターナリズム批判とは、この選択権を患者自身の手に取り戻そうという運動だったわけです。ではなぜ治療において患者自身の意思が重要視されるのでしょうか。少し回り道になるかもしれませんが、「自分のことは自分で決める」ということ、一般に“自己決定”と呼ばれることについて少し広く考えてみることにしましょう。
自己決定とは単に選択することを意味するのではありません。現代社会においては、ある選択をした際に、その選択を行ったことに対して選択した当人が責任を求められることになっています。逆に、ある個人が選択の結果生じるリスクを負い切れない場合には、その選択をする権利は持てない。そこから考えると、自己決定とは、自己選択と自己責任とが折り畳まれて出来た概念だということが言えると思います。
自己決定という概念が何故現在妥当性を持ち得ているかというと、自分についての選択の結果生じるリスクは、本人以外の人間が負うことが出来ないという事実からです。患者本人以外の誰も、患者に降りかかるリスクを代わって負うことは出来ない以上、本人の意思による選択が最優先され、周囲の人間はそれに従って対応する責任を持つ。これが自己決定に関する議論の大原則です。
ただし現時点において本人が選択することが、後になって本人の自己決定権を阻害する場合もあり得ます。心理的圧迫が存在しない状況において、適切な情報に基づいた充分な理解の上で為された選択でなければ、その選択はその当人にとってベストとは言えないかもしれない。だが、たとえそのような選択であったとしても、ある選択をした場合にその責任は後になっても要求されるために、後になってから撤回することはなかなか困難なのです。このような場合には、選択時期を遅延させ、後になってから本人が選択する方が、より当人の自己決定権に適うと言えるでしょう。
しかし、それすら出来ないほど、時間的余裕がない切迫した状況の場合もあり得ます。突発的な交通事故など、医療においてはそうした状況は決してまれではない。ここで初めて身近な人による代理可能性が考慮されるわけです。以上を纏めると、自己決定に関する議論の原則は、次の3つのステップからなると言えます。即ち、
一般に、自己決定権が問題となるような状況とは、選択の結果が周囲の人間に否応も無しに影響を与えてしまう状況です。そうした場合、本人がただ決めると主張するだけでは問題は解決しない。それゆえ自己決定権とは常に、周囲の人間の対応の問題と言うことも出来ます。
だが、だからこそ自己決定というものの原則を上のように定めておくことが重要なのだと僕は考えています。何故ならば、周囲の人間の権利から考察を始めた場合には、まずどうあがいても当人の選択を尊重すべきという結論は得られないからです。自己決定権については多くの論者が様々な見解を提出しており、一つのトレンドと言っても良い状況がありますがそれは、これまでの社会において当人の選択を尊重するという考え方がまだ根付いていなかったことに対する傍証と言えるでしょう。
essay#01 / essay#02 / essay#03 / essay#04 / essay#05 / essay#06
analyse interminable startpage / preface
/ profiles / advocacy of gay rights
/ essays / links / mail