「善意と良識に従った行為」の向かう対象が他者であるか自己であるかが、パターナリズムとオートノミーとの相違点であると整理しました。有名な対立概念ではありますが、この二つの概念は、見掛けほど異なったものではなく、ある行為がパターナリズムであるかオートノミーであるかは、実際問題としてはなかなか曖昧なところが残ります。
実はその曖昧さは、医療の世界においてパターナリズム批判が近年になってから沸き起こったことと、無関係ではありません。現在批判の的となっているパターナリスティックな行為も、昔は批判されなかった、というだけでなく、むしろ当然のこととして受け止められていた。しかしそれは、何故なのでしょうか。
当然と思われるかもしれませんが、人々は互いに異なっています。従って、ある人が別の人の意志を代理するということは、本来不可能なことなのです。自分のことは自分で決めるというオートノミーの考え方が一定の有効性を持ち得たのは、そうした思潮的背景あってのことでした。
だが、そこで言われる「自分」という単位が、近代が言う「個人」と常に一致するわけではないことは、注意しておくべきでしょう。人々は互いに異なっている。従って住む世界の全く異なる他者が、ある人の意志を代理することは出来ない。だが、同一の領域に住む人間同士ならば、その意志の代理は正当化される。いわば、「自分たち」と呼ばれる集団内部であるなら、互いが互いの意志を代弁しても構わないはずである、と、そうした考え方が、なお根強く残っているのです。
このことに注意を向けるなら、ある行為がパターナリズムとして批判されるか、オートノミーとして処理されるかは、行為の主体と行為が向けられる対象とが同一領域に属する人間と見なされるかどうかによって決まる、と言えるでしょう。平たく言えば、自分に手を出してくる人間が自分の仲間と感じられるかどうか、ということです。
ここから考えると、近年になってから、医療の世界で医師のパターナリズムが批判されるようになった、ということは、つまりは患者側が医師を自分たちの仲間と見なさなくなったということの表れと見ることが出来ます。
かつては医師と患者との間にあったはずの壁は、仮に存在していたのだとしても強く意識されなかった。その状態であれば、患者の意志と医師の意志とは同一であると仮定されますから、オートノミーとして処理されてしまうのです。だが、現在両者の間にある壁は、とても強く意識されるようになってしまった。それゆえ、医師が患者の意志を代理することの不当性が明瞭に意識に上るようになり、パターナリスティックな行為がそのパターナリズム故に批判されることが可能となった、と言えるでしょう。
患者の意志と、医師の意志とが同一であると見なされる限り、そのパターナリズムは見えなくなってしまう。では、どうしてかつては同一と見なされ、現在では同一と見なされなくなってしまったのでしょうか。
多くの歴史的文脈があるに違いありません。だがとりあえず挙げられるのは、個人主義が時代が下ると共により徹底化されるようになってきたことでしょうか。個人主義を背景として、人間は皆互いに異なっているという認識、何を大切と考えるかは人それぞれだという価値相対主義、それが医療の世界にも入り込むようになってきたことが、意志と患者とを同一カテゴリーに括ることを阻み得たのでしょう。
もちろん、それを可能とした技術的側面を忘れることは出来ません。医療技術の進歩は、多様な診断技術や治療法を開発してきたため、臨床現場において選択の余地が現れた。そのことが患者の意志を問う動きを可能とさせた。また別の側面としては、医療スタッフに対する絶対的信頼感が揺らいだことも挙げられるでしょう。実は今受けている治療というのは、治療という名を借りた人権侵害ではないのか、患者は実験台にさせられているのではないか、という懐疑は現時点では決して少数派ではありえない。そしてまた、社会全体の個人主義的、あるいは相対主義的風潮が、患者の権利運動に拍車をかけたとも言える。
いずれにせよ、パターナリズム批判が医療界に与えたインパクトは大きなものだった。現在その批判の上に、新たな医療システムが模索されていると言っても、言いすぎには当たらないだろうと思います。今はそのうねりの只中にあるのです。
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