#4.パターナリズムについてC

 

 患者の意志が、単純に病気を治すことだけに向けられているのだとされていたからこそ、医師が何をやってもそれが「善意」に基づく行為である限り問題とされなかった。医師と患者の意思が完全に一致すると考えられていたからこそ、医師のパターナリスティックな行為も患者のオートノミーとして処理されてきた。
 だが、元来存在していたであろうこの両者の間の壁、あるいはズレは、価値相対主義もしくは個人主義の思潮が医療現場に入り込む過程で強く意識されるようになってきた。それが、パターナリズム批判として結晶化してきた。ここまでで、そのように整理してきました。
 ところで興味深いのは、こうした過程で登場してきたパターナリズム批判が含み込んでいる別の側面です。それをスローガン風に纏めるなら、「患者ではなく、病気を見よ」と言えると思います。どういうことでしょうか。

 パターナリズム批判は、患者の主体化もしくは自律をこそ企図していた。患者はたとえ自己の一部が病気だとしても、自我そのものは決して病気ではないのだから、医師が患者の自我に対して関与することは越権行為でしかない。医師は患者の自我に介入してはならない、これがパターナリズム批判の基本的な前提であったのです。
 パターナリズム批判が提示したモデルの要点、それは、患者の主体性は保持したままに、患者が自分の手だけでは不可能な様々な行為を、医師に代行させるというものでした。先程と同様、図示してみることにしましょう。

 患者は、自分の中になにか不都合なもの、異常なものがあることに気付き、それを「病気」であるとして治療しようとする。そうだとすると、病気は自己の一部であるのだから、行為主体と行為対象の同一性が保たれ、その企図は常にオートノミーと考えられるわけです。
 ところが、患者は必ずしも治療を行うために必要な知識や技術があるとは限らない。そこで、患者本人だけでは成し遂げられない治療を、専門家である医師に代行してもらうのです。これを治療契約と呼びます。この形式を採ることで、患者は自我を主体として保持し続けることが出来る。パターナリズム批判が提示したモデルはこうした、患者を二重化して捉えるというものでした。
 重要なことは、ここで治療対象となるものは患者が治療を要請している客体としての病気だけであって、主体としての患者自身では決してありえないということです。患者そのものは従って、決して医療行為の客体には成り得ない。パターナリズム批判とは、患者自身への治療を拒否する論理なのです。
 ということは、パターナリズム批判の上に構築されるはずの医療モデルは、「病気を対象とする」ものでしかありえない。「医者は病気を治すのではない、患者を治すのだ」という、最初に挙げたヒューマニスティックな主張は、パターナリズム批判と権利上両立できないのです。

※少し補足させてください。近代において一般的に流布した考え方とされる心身二元論とは、自分自身をこのように行為する主体とその対象となる客体に二重化した結果として成立するものと理解すべきで、その際の主体を意味する「こころ」という語彙もまたそこから考えるべきです。「こころ」はそれゆえ、非常に掴みづらい性質を持っています。

 


essay#01 / essay#02 / essay#03 / essay#04 / essay#05 / essay#06
analyse interminable startpage / preface / profiles / advocacy of gay rights / essays / links / mail