#2.
様々な表象を、その断片のまま、断片それ自体において性の所属を判断するというこのメカニズムのことを、ジェンダーというシステムと呼んだのです。ところでこのジェンダーというシステムはまた、表象そのものではなく、その表象の所有者に対する判断をも含みこんだものなのです。この込み入った関係は、どのようなものなのでしょうか。
少し脇道に逸れるように感じられるかもしれませんが、ここで一般的に認められる判断枠組みについて指摘しておきたいと思います。ここで取り上げたいのは、ある現象には必ず背後にそれを引き起こした原因がある、という考え方です。これをとりあえず因果関係と呼んでおきますが、この因果関係という考え方は無意識的かつ非常に広く行き渡っており、こうした枠組みから逃れるのはかなり困難な作業です。ジェンダーに関しても、こうした判断の仕方がまま見られます。
我々が為す判断は、現実には次のようなものだと思われます。先ほど挙げたような様々な表象ごとに、我々はその性の所属を判断する。例えば粗野な振る舞いは男性的、きらびやかなドレスで着飾るのは女性的、等という風に判断するのです。だがそこで先ほど指摘した因果関係という判断枠組みによって、その表象には背後に原因があるはずだ、そう考えてしまうのです。そこから推測されてくるのが、その表象の担い手の性別というものなのです。実際にはジェンダーというシステムはその断片ごとに作動しますから、理屈の上ではその表象の担い手と表象それ自体とは無関係であるはずです。だが、因果関係という判断の仕方に慣れ切っているが故に、ある人間の性別ゆえに、このような表象が現れてくるのだと考えてしまうのです。たとえば、この人は、この人が男性であるが故に粗野な振る舞いをするのだとか、この人が女性であるが故にきらびやかなドレスで身を飾るのだとか、そのように考えてしまうのです。
ジェンダー研究の領域で使われるいくつかの用語は、こうした因果関係という判断枠組み故に要請されたと言って良いでしょう。例えばジェンダー・アイデンティティやセクシュアル・オリエンテーションも、表象の背後に推測された原因として規定されています。ジェンダー・アイデンティティについてはもはや上の議論で充分だと思いますので、セクシュアル・オリエンテーションについて少し触れておきましょう。
セクシュアル・オリエンテーションというのはどのようなジェンダーに性的欲望が向かうのかを記述する用語です。実際には我々はある人物に対して、その人がどのようなジェンダーに欲望を向けるのか、その都度その都度判断しているわけです。例えば一緒につれて歩いている人、酒の席でその人の口から話される話題や、噂話などその人の立ち振る舞いそれぞれにおいて、判断しているわけです。だが、我々はそこから一歩踏み込んで、その人のセクシュアル・オリエンテーションを推測します。こういったセクシュアル・オリエンテーションをこの人は持っているが故に、こういったジェンダーに対して欲望が向かうのだ、と、そう考えるわけです。
そして、ジェンダーに関する議論の中で、この因果関係という発想がもっとも強力に現れるのは、ジェンダーの原因となる生物学的性差という考え方です。ジェンダー研究者があれこれごちゃごちゃ言っているが、要するにこうした現象には共通の原因があって、つまりはそれが生物学的性差なんだ……こういった考え方は現時点においてすらも極めて根強いものがあります。因果関係という判断枠組みを崩さない限り、あらゆる現象には原因が推定されつづけ、その連鎖の行きつく先は、自然科学信奉の強い現代においては、生物学的根拠となるのです。性科学などの論文を読むと、最終的に単一の原因によって多彩なジェンダー・システムを統一的・ツリー状に説明しようとする論者が溢れていることがすぐ判ります。
以上のことを図式化してみましょう。次のようになります。
生物学的性差と呼ばれるセックスは、ジェンダーによって遡行的に見出されるのであって、それ以前にセックスなど存在しない。ジェンダー・アイデンティティは様々なジェンダー化された行為を通じて遡行的に見出されるのであって、それ以前にジェンダー・アイデンティティなど存在しない。セクシュアル・オリエンテーションは具体的な性的行動や欲望から遡行的に再構成されるものであって、それ以前にセクシュアル・オリエンテーションなど存在しない。……しかし、そうであるとして、では何故我々はこうした“因果関係”に基づく判断をしてしまうのかという疑問は続きます。これについては、因果関係という判断枠組みがそれだけ強力であるからだ、と答えるしかありません。その一方で、ジェンダーに関して因果関係という判断枠組みがそれだけ強力であるということの背景については多少考えておくべきことがあります。因果関係という判断枠組みの存在はジェンダーについてどのような影響を与えているのか、それ一つは人間のカテゴリー化ということであり、もう一つはそこから帰結する表象同士の結合ということです。これらについて考えてみたいと思います。
共同体は、一般に個人を構成要素としています。そのことは様々な領域において確認することが出来ます。この、個人を構成要素とするということは、カテゴリー化を個人を単位として行うことも意味しています。先ほど様々な表象をその表象ごとに性の所属を判断するだけでなく、そこから遡行的に推定され、その表象の担い手である人間もまた性の所属を割り当てられる、と述べました。そしてそれが“因果関係”という判断枠組みであるとも指摘しました。では何故その際に、その表象の担い手である人間の性の所属を推定するのでしょうか。それは、この共同体が個人を単位としているからであり、それゆえにカテゴリー化は常に個人を単位とするからです。だがまた次のようにも言えるでしょう。共同体の個人を単位としてカテゴリー化するというこの機構それ自体を、裏打ちする形でジェンダーというシステムは機能しているのだ、と。
共同体内部で行われるこの個人を単位としたカテゴリー化は、個人間の差異を確定することで様々な政治的メカニズムの安定化に寄与しています。このカテゴリー化は、何種類も存在するわけですが、そのようにカテゴライズすること自体が共同体を安定化させる。制度とは、そのようなものなのです。したがってこうした制度に基づく秩序はそれ自身の安定化のために、カテゴリー化を常に継続する必要があるのです。何故なら、一旦立ち止まってしまえば、そのカテゴリー化に対する信頼が消えてしまい、それに基盤を持つ制度も秩序も傾く危険性があるからです。
こうして共同体内部では個人を単位としたジェンダー化が共同体それ自身の安定化のために要請されることになります。ところでこうしたメカニズムは、個人を単位として行う結果として、ある個人が担う表象の種類をも制限するのです。どういうことでしょうか。
様々な表象をその表象ごとに性の所属を判断するだけでなく、そこから遡行的に推定され、その表象の担い手である人間にもまた性の所属を割り当てる、ということは、理屈の上では次のようなことが起き得るといえます。ある人がある時担う表象が、男性的と判断されたので、遡行的にその人自体も男性だと判断される。ところがまた別の時同じ人が担う表象が、今度は女性的と判断されたので、遡行的にその人自体も女性だと判断される。……だが、このように個人の性の所属がその時々で簡単に変わってしまっては、個人を単位としてカテゴリー化することで制度的に秩序を維持している共同体のメカニズムは、あっさり崩れます。個人のカテゴリー化は、一定期間以上同一のカテゴリーにその人を置いておくことが出来るからこそ有用なのですから。
であればこそ、ジェンダーというシステムは、最終的にある個人を単位としてどちらかの性に所属させるのです。それは、揺らぎのない形での所属でなければならない。しかし、表象に制限がなければ、上で述べたような混乱は必ず生じます。それゆえ、男性と見なされた人間には女性的表象を担わせないため、女性と見なされた人間には男性的表象を担わせないために、共同体には様々な別種のメカニズムが備わる必要が出てくるのです。
そのメカニズムの詳細は今は分析しません。ただ、確認しておきたいのは、次のことです。おのおのの表象の断片間には全く関連性がないにもかかわらず、ジェンダーというシステムはまさに男性か女性かという二つのうちどちらか、そしてそれのみに振り分ける。何故この表象の断片を振り分けたのと同じやり方で、別の表象の断片も振り分けなければならないのかといえば、上に述べたようなシステムゆえである。このようにして、本来関係がなかったはずの多数の表象に、男性的か女性的かというグループ分けが為される。つまり、表象の間にそれが男性的か、あるいは女性的かという関連性が導入されるのです。この関連性それ自体がまた、共同体の秩序をより強固なものにしているのです。
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