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●この紙芝居(かみしばい)は、綿貫
桂子(わたぬき・けいこ)さんの4さいの時に体験(たいけん)した、戦争を伝えるものです。きっかけは八尾の小学校で戦争体験(せんそうたいけん)を講演したことです。あの時死んだ人達から「このことを知らせて欲しい」という声が聞こえてきそうで、綿貫さんは絵筆を取り、目に見える形にしました。そして機会あるごとに自分の肉声で子供達に分りやすく語っています。 ここでその一部をご紹介します。 |
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●1945年(昭和20年)3月13日の夜中、大阪市港区に大型飛行機によって焼夷弾(しょういだん)が落とされ家々を焼き付くしました。近所の大人におんぶされ逃げる綿貫さんの小さな手足にも火の粉が降りかかり、恐さと熱さのため足をばたつかせています。
(関連HP:港区私たちと戦争展=おおつき通信) |
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●知っていますか?強い火が風をよびごうごうと熱風が人々を襲います。木の電信柱(でんしんばしら)も燃えています。空には爆撃機(ばくげきき)がたくさん飛んでいます。安全なはずの防空ごうの中には既(すで)に多くの人が死んでいて重なっていましたが、飛行機がくるのでとっさにその上に飛び込みます。そしてまた外に出て別な安全な方向に逃げました。 |
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●激しかった空襲(くうしゅう)の後は一面焼け野原です。まだくすぶっています。どこにも住める家の姿が見えません。母の背中におんぶされている2歳の妹が歩きたいというので、防空ごうをさがして妹の革(かわ)ぐつがうそのようにスリッパのように焼け残って出て来ました。 |
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●四国高松(しこくたかまつ)の親戚(しんせき)に疎開(そかい)しましたが、そこでも空襲(くうしゅう)にあったので、さらに山奥に逃げました。虫よけの蚊帳(かや)を立木に張り食事の準備(じゅんび)。大人は薪(まき)を集めています。私は清らかな小川で祖母(おばあちゃん)とつかりました。生まれ変わったように気持ちが良かった。水面ぎりぎりに赤とんぼが飛び、心も身体も癒(いや)されました。 |
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●私たちの日本は戦争に負けました。大切な命(いのち)も住む家もたくさんなくしました。生活の糧(かて)もありません。親を亡くした子供たちは、自分の毎日の食費や生活費を稼(かせ)ぐために、進駐軍(しんちゅうぐん)や大人の靴を磨(みが)いて働きました。女の子も幼い子を抱いて子守りをしました。毎日毎日が生きるために一所懸命(いっしょけんめい)でした。 |
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●紙芝居のための下絵と構想。
私は あつい!あつい!けむりで、
のどはカラカラ。泣きわめきながら
フト目の会った人は 近所の顔見知りのおばさんでした。声も出しません 手をさし出し意識がとおのくのか・・・ |
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●100号に絵と共にピースおおさかに添えた文 |
その時テレビを見ていた私は不意に、頭をガーンとなぐられた気持ちでした。 国が政府がそんなやりっぱなしにする筈はないと耳を疑いました。 生き残った戦友が善意で細々と遺骨を回収され供養されているニュースでした。その近くの海岸では戦争を知らない若者達が楽しそうにはしゃいで観光でどんどんグァムやサイパンで遊んでいるニュースでした。 語りたくても語れない多くの人達の無念の気持ち(魂)を見捨てたままでは人間も国も良い未来はやってこないとその時真剣に思いました。 昭和30年代(1956〜8年頃)、私が17〜8の頃でした。 くやしい思いで亡くなってゆかれた方々の思いを残そうと30代末の頃、空襲体験を6〜7枚のイラストに書きとめて置きました。 後に2000年頃八尾(大阪府)の小学校で戦争体験を講演したことが、ご縁で紙芝居にしてほしいとのことで20枚ほどの紙芝居に描き足りませんが仕上げました。 |
綿貫 桂子 |
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