#16.小児医療におけるパターナリズム@

 

 パターナリズムについて考えるとは、人権について考えるということです。つまり、現代においてはあまりに多くの領域において多元的に問い掛けられ、もはや一体何が正しいことなのか答えを出しようがないように思える、複雑に絡み合った問題を考えるということを意味しています。そうしたうねりの只中にあっては下手をすると、自分で一体何を目指そうとしているのかさえ見失ってしまいかねません。自分が支えとしてきたあらゆる道徳的前提を疑うという倫理的態度を、そうした試みは要請しているからでしょう。それは大変困難ではあるが、必要な課題です。
 前に僕は「パターナリズムについて」において、こうした複雑な問題を個別に考えていく準備として、現在よく話題に上ってくる医療におけるパターナリズム批判を巡って、ごく粗いものではありますがスケッチを試みました。そこでは基本的ないくつかの用語を導入しました。パターナリズムとオートノミーという対立概念の図式化、パターナリズム批判が提出した医療モデル、そして自己決定権。これらについてはもはや繰り返しません。ここではそれらを前提として、小児医療という個別的な場におけるパターナリズムを論じてみたいと思います。小児医療とは、論者が全く理論的見地に立った上でさえ、パターナリズム批判を貫徹することのできない領域の一つだからです。

 小児医療の中で、それが特殊であるのは多くの場合治療契約が患者である子ども本人とではなく、その養育者=親との間で交わされるという点です。そうした構造を支えるのは、子どもを独立した権利主体とは見なさず、むしろ養育者の従属物として、養育者がその意思を代理しなくてはならないものとして考えるという法体系および社会通念です。そこでは一般に、次のような医療モデルで治療が為されると考えられます。

 前にパターナリズム批判が提出した医療モデルを示したと思います。それと上の図とを比較してみてください。パターナリズム批判が提示したのは、患者をその行為主体=意思と行為対象=身体とに二重化し、自我を主体としてあくまでも保持しながら、知識や技術を持っている専門家たる医師に治療を代行してもらうというモデルでした。ここでは、行為主体は養育者の意思に、行為対象はその子どもの身体になっていますが、その一点以外はパターナリズム批判が提示したモデルと全く変わりません。従って、もしも養育者の意思と子どもの意思とが同一であると見なせるなら、あるいは少なくとも養育者が子どもの意思を代理できると考えるなら、この小児医療モデルはパターナリズムの批判者から見ても完全に問題がないはずです。
 もしも、このモデルに疑問を投げかけるとしたら、養育者が子どもの意思を代理できるのか、代理することは許されるのかというこのたった一点しかあり得ません。そして、この疑問に対して答えることは、実は非常に厄介です。何故なら、子どもを独立した権利主体とは見なさず、むしろ養育者の従属物として、養育者がその意思を代理しなくてはならないものとして考えているのは、医療における特殊事情ではなくて、法体系および社会通念という医療の外にあるものだからです。従って、もしも小児医療において養育者による子どもの意思の代理を疑問に付すとすれば、それはこの共同体全体に広がっている、子どもの権利についての法体系および社会通念そのものに疑問を付すことになります。すなわちそれは家族について、一般的な議論を展開する必要があるということです。

 


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