#17.小児医療におけるパターナリズムA

 

 ジョン・スチュアート・ミルは『自由論』(1859年)において、私生活と公共道徳とを「危害」の概念に基づいて見事に区分してみせました。ミルの基本的な考え方は次のようなものです。文明社会では、いくつかの理想を促進し、いくつかの悪徳を抑制しなければならない。けれども、社会がこの目的を実現しようとするからといって、個々人の私的な信念や行動にまで政府が干渉する必要はない。国家権力は個人に対して行使される際に危険なものとなりうるため、政府および警察などの政府関連機関が私生活に干渉することは禁止しなければならない。同様に、多数派が専制的になることも阻止しなければならず、そのためには多数派が、自分たちとは異なった考え方を持つ少数派に自分たちの社会的・宗教的な信念を押し付けることを禁止しなければならない。
 では、私生活と公共道徳の間の一線をどこに引くべきか。ミルは次のように述べます。

社会が個人を強制したり統制したりする際に使用される手段としては、刑罰という形での物理的力の場合もあれば世論という道徳的な強制の場合もあるが、どちらの場合でも、統制のあり方を絶対的に決定する資格のある非常に単純な原理が存在する。その原理とは、人類が、個人としてであれ集団としてであれ、誰かの行動の自由に干渉することが許されるときの唯一の目的は、自己防衛である、というものである。別の言い方をすれば、文明社会の構成員に対し、その人の意思に反して、正当に権力を行使できる唯一の目的は、他人に対する危害の防止である。その人自身の利益は、物質的なものであれ道徳的なものであれ、強制のための充分な根拠とはなりえない。……人間の行為の中で、社会に従わなければならないのは、他人に関わる行為だけである。自分自身にだけ関わる行為については、その人は、他から干渉を受けないという絶対的な権利を持つ。自分自身について、自分自身の身体と精神については、その人が主権者である。[強調引用者]

 ここで述べられている、私生活と公共道徳とを区分する彼の大雑把な経験則は、ミルの“危害原理”と呼ばれています。この原理を適用することで彼は、私的行為つまり「自己に関わる」行為を定義し、その範囲を定めようとしたのです。それによれば成人(あるいは成人の集団)の私生活の領域に含まれるのは、純粋に個人的で、他人に危害を与えるおそれのない行動ということになります。そして彼は、この危害原理で定義されるような私生活では、個人は自律的に行動してよいということ、価値判断は個人の経験や選択によってなされること(つまり、価値は国家によって押し付けられるべきではないということ)、そして国家は個人に対して、公共の利益のための行動あるいはその人自身の最善の利益のためになるような行動ですら強制する権力を持つべきではない、と主張したのです。
 ミルの主張の核心的な部分は、政府が市民に対して為し得ることを制限する条件として個人の権利を考えたという点にあります。つまり、彼が問題としている個人の私的領域とは、政府が干渉すべきでない領域としてのみ捉えられているのであって、個人間の原理としてまでこの危害原理を拡張してはいないということ、ここは充分注意しておく必要があります。例えばミルがこの著書を発表した19世紀には、人権は家庭の門の前で止まっていた。成人男性が家族を代表して人権の主体となって、国家から保護されたり、国家が自由を侵害しないようにしていたわけで、家庭内は私的領域としてのみ見られていたわけです。従って、国家による個人の自由の侵害については危害原理で批判できても、家長による個人の自由の侵害については別のモデルが必要になるわけです。

 


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