#18.小児医療におけるパターナリズムB
ミルの議論は、しかしながら非常に示唆に富んでいると言うべきです。ミルは、政府が過度にその構成員を統制しようとしていたという時代背景故に、政府による統制から逃れた領域としてプライベートという空間を見出す必要に迫られていたといえるでしょう。だが我々は彼とはまた異なる時代背景に置かれている。そのため彼の危害原理もまた、現代においては違った意義を持つと考えられるのです。
繰り返しになりますが、危害原理とは、他者に対して危害を及ぼさない限りその行為・領域は私的空間=プライベートと見なされ、他からの干渉を受けないというものでした。ここで曖昧な表現が出てきます。他者、危害、というのがそれです。そもそも他者とは何であろう? 危害とは何であろう? これらは必要な問い掛けだろうと考えます。というのは、他者も危害も、それが指す領域は時代によって変化してきたからです。
危害原理はしたがって、あらかじめ他者や危害という概念についての一定のコンセンサスの上に成立する原理だということが言えるでしょう。先立つ政治的状況が必要なのです。
ところで現代において、プライベートとは政府からの市民の自律という意味から大きくスライドしてきているように思われます。それはミルの時代から他者についての概念が変動したことの反映と考えられます。具体的には、家庭という場がプライベートだと言い切り難くなったことがそれです。まだこの点については揺れが続いていますが、揺れているということそのものが他者という範囲が変わって来たことの証拠です。こうなってくるとミルの危害原理もまた、新たな視座をもたらすと考えられます。
ミルの危害原理は、これまでの我々の表現を使うならパターナリズムが許容される範囲についての取り決め、あるいはパターナリズムをオートノミーと見なす範囲についての取り決めと密接に関わっています。パターナリズムがオートノミーとして理解されるのは、ある領域が政治的に一つの単位とみなされるという条件の上に為されます。つまり、ミルの危害原理は、こうした単位間における危害についての取り決めとして理解できます。危害とは、各単位の間で為されることが条件なのです。
さて、家庭が一つの単位であるというこの命題に誰も批判の矛先を向けなかったのならば、家庭の内部でどのようなことが行われようとそれは危害とは考えられなかっただろうと考えられます。そして家庭はプライベートの場だと考えられていたでしょう。だが現在、家庭が必ずしも一体であり、プライベートな場であるとは考えられなくなってきているように思われます。それはまず、家庭内の構成員間で危害がなされ得るという考え方が現在広がってきたからだと考えられます。具体的にはドメスティック・ヴァイオレンスと呼ばれますが、かつては子どもが親を殴った時などのみ問題視されていたのも、現在は家庭内の成人男性によって為される暴力が問題視されるようになってきました。それは子どもや女性に危害を与えることだ、権利を侵害することだと一般に感じられるようになってきたのです。
こうした変化の背景には何があるのでしょうか。危害の概念の変化には、必ず政治的状況の変化が背景にあります。
成人男性が振るう暴力は、かつては家庭内自治の問題としてしか認識されていませんでした。秩序のための権力であって、それは必要なものだと考えられていた。だが近年になって、段々その弊害が認識されるようになってきたのです。具体的には子どもや女性の精神的安定を奪い、精神疾患を誘発し社会生活を困難にさせるということが段々分かってきたのです。さらに言えば、暴力はそれを振るう男性側の心理的背景の問題であり、家庭内秩序の維持において何ら必要でないということも分かってきました。ということは、こうした暴力は社会的に見た時、家庭の秩序の維持に役に立たない上、暴力を受けた側の安定した生活を破壊し、教育や福祉や医療に新たな負担をかける、つまりその共同体における負担を増やす行為だと分かってきたわけです。つまり、成人男性が振るう暴力は、巡り巡って家庭外に危害を加えることになるわけです。これらにより家庭内でも危害が発生するという考え方が生まれたと考えられます。
また一方でフェミニズムにより、家庭という制度それ自体が疑問視されるようになってきていますし、子どもの権利運動は大人による子どもの抑圧という視点を広めることに成功しているように思われます。こうした市民による運動が、家庭を単純にプライベートと捉える慣習に揺さぶりを掛けているのです。今我々は小児医療をテーマに話を進めているので、現在小児医療において強く問題視されている子どもの虐待について、次に触れてみたいと思います。
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