#25.小児医療におけるパターナリズムI

 

 子どもの虐待への対応は、チームで為されるべきであると言われます。関係者を誰も排除することなくチームを作り、何処にどのような人がいるか確認し、常に迅速に情報をやり取りするなど連携を強化し、相互の支持の上に柔軟に対応することが必要とされます。具体的には児童相談所・福祉事務所・保健所や医療機関・養護施設、保育所・幼稚園・学校など教育諸機関や家庭児童相談員・育児支援相談員、法律関係者、虐待防止協会など民間組織やさらには地域・近隣の人に至るまで、あらゆる関係者がネットワークを形成する必要がある。
 しかし、何故ここまでネットワーク形成の重要性が強調されるのか。一個人で対応しようとして上手くいかなかったという経験から言われているわけなのですが、その失敗は理由のないことではありません。一人では到底対応できないくらい巨大な問題だから、それは一個人の能力を遥かに超えるから、という量的問題だけではない。虐待という問題そのものが、地域に密着したネットワークによる援助を必要とするからでもあるのでしょう。どういうことか。
 虐待というものは、家庭というごく日常から発生する現象です。ということは、そこで起こっている精神力動の変調を回復しないことには改善しようがない。これは、虐待が生じている家庭への援助が、病院を始めとする非日常空間においてのみ為される限りは、すぐさま限界にぶつかってしまうことを意味します。そのため、日常そのものの中で解決を図るために、その家庭に関わる関係者すべてがネットワークを形成し、チームで解決にあたることで日常そのものの変革を図る必要がるのです。
 そしてもう一つ、虐待ということはもはや特殊な家庭に起こる特殊な現象ではありえない、ということも確認する必要があるでしょう。虐待とは日常であるとは、この意味においても妥当します。現時点で不登校がどの子どもにも起き得る日常であるように、虐待もまたどの家庭にも起き得る日常なのです。それは本当に些細なことから始まる。それゆえ、対応と言っても特殊なものが要請されるのでは、本来ないはずなのです。しかしその対応が遅れたり不適切な介入が行われることで、精神力動の変調がよりこじれ、その結果として児童相談所が現在扱っているような重篤なケースにまで発展してしまうのです。虐待の始まりは日常である、ということは銘記する必要がある。そしてその日常の回復が目的となるのです。
 このことに関連して、ある家庭について聞いた話があります。
 ある家庭で、ご両親がいつも喧嘩ばかりしていて、とばっちりが飛んで来るために子どもたち3人はその都度家の外でじっと喧嘩が終わるのを待っていたそうです。ある冬の夜、その喧嘩が長時間長引き、外で待っているには寒くて寒くて仕方なかった為に近くの床屋さんの所に行って暖めてもらったのだそうです。床屋のおじさんは始めのうちは何も聞かずにただ中に入れていただけでしたが、やはり子どもも寒い所よりは温かい所が良い訳です、その後は両親が喧嘩を始める度にその床屋に避難するようになっていった。
 やって来る頻度が上がるにつれ、その床屋のおじさんと子どもたちとの間に感情的な繋がりが深まっていきました。そうした中でおじさんは子どもたちの話を聞く中で、そんなに頻繁にやって来るその家庭的背景を知るようになっていった。そしてそのおじさんは、怒りを覚えるわけです。ある日寒空の下、再び子どもたちがやってきたときに、おじさんは意を決してその子どもたちを連れてその子の家まで訪れた。そしてその子の親に言ったのです、子どもたちにこんな寒い重いばっかりさせているのなら、この子達は俺が引き取るぞ、って。喧嘩中だった親たちは驚いて、その日は喧嘩が収まったということです。
 それで完全に家庭内が収まったわけではなく、時々は喧嘩もあったりしてその度床屋のおじさんの下へ行ったりして子どもたちは子ども時代を過ごしていった訳ですが、もうこんな家はいやだと一番上の女の子は高校卒業と同時に家を離れ、遠くの大学に行きそのままその街で就職して、もうその土地には戻らなかった。その街でも過去の心の傷を引きずって、精神科に通院しカウンセリングを定期的に受け続けていた。
 そういう風にして年月が過ぎ、ある時突然彼女がカウンセリングを受けていた精神科医に、父親がどうも胃の病気だそうだから、どこか良い病院はないかと聞いてきた、というのです。
 ああした子ども時代を送り、あそこまで自分の家庭を嫌っていて、だからその精神科医は当然親子関係の修復など望むべくもないと思い込んでいたので、彼女が聞いてきた内容にその精神科医は本当に驚かされた。それはその精神科医の個人的な思い込みでは済まされない、というのは通常であればそうした状況にあった子どもと親との関係の修復は、まず不可能であったからです。彼女の場合、唯一違っていたのは近くの床屋のおじさんが自分たちのことを本当に心配してくれた、という体験があったことだけです。児童相談所も精神科医も、そこには介在していない。
 我々は虐待という現象において、ごく日常に存在している隣人が果たす役割というものを、もっと大きなものと考えるべきだということを、この話は示しているように思われます。

 ハーマンがいう「意味ある隣人」がいるということこそ、実は何よりも重要なことなのではないか。それ抜きに専門家たちが専門家としていくら動いても、問題は解決しないのではないか、と思います。それは、専門家が専門家として介入する際にはどうしても距離をおいたパターナリズム構造に陥ってしまい、そこで機能している日常という精神力動に踏み込めないからではないかと考えられます。
 家庭には家庭の自律性があり、虐待においてはその変調が問題であった。その精神力動は様々なものがあるわけで、単純にある一定の枠を専門家の方が押し付けようとしても、拒絶されるのはむしろ当然と言えるのです。専門家もまた、専門家としてではなく、「意味ある隣人」になろうと勤めるべきではないだろうか。
 もちろん、家庭の自律性を無批判に受け入れることは避けねばならない、というのはそうすることは他者による援助を完全に不可能にするからなのです。家庭という構造自体も、同時に問い掛けられねばなりません。
 家庭それ自体を、他者同士が互いを意味ある隣人として見なし合うような、そうしたもっと緩やかなネットワークとすることは出来ないものなのでしょうか。我々はいつの間に、家庭を特殊な領域と見なすようになってしまったのでしょうか。もしかしたら、我々が虐待と呼ぶその現象の最も根元の方には、こうした家庭という構造そのものに由来する問題があるのではないかと感じてしまうのです。以下では家庭精神医学の古典と見なせる、R.D.レインの提出したモデルを検討することを通じて、家族とはどのようなものなのかを考えていきたいと思います。

 


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